その一
立花家の樹月の部屋で、澪は震えていた。
どうしようもなく震える身体を丸め、恐怖に駆られながら。
(駄目……来ないで!)
薄暗い廊下を音も無く横切る白い影。
それは彼女の姉であって姉でない存在だった。
『や……え……』
虚ろな呼びかけと共に、少女の姿がすっと視界から消える。
移動速度から見れば、丁度澪から見えない位置……そう、樹月の部屋の入り口の扉前。
(こ、こない……でぇ……)
壁と扉越しに伝わってくる酷く冷たい気配。
足音はしない。
だが、姉よりも劣る霊感でもはっきりと解るほど、そのぞっとする様な霊気は存在している。
そう、丁度扉の前に。
(…………!)
もう、何も考える事が出来ないほどに、澪は恐怖で混乱していた。
地下道、そして立花家に入った後。
2度の追跡劇ではっきりと解っていた。
”アレ”に捕まったらもうお終いだという事に。
唯一の霊に対する攻撃手段である射影機も”アレ”の前では全くの無力。
(い、いや……いや……絶対に嫌!)
今まで戦ってきた村人の霊や悪霊とは比較にならない程の冷たさ。
それをあの”アレ”は内包していた……狂気に満ちた哄笑と共に。
かこん。
扉に誰かが触れたらしく小さな音が立つ。
「ひっ!」
慌てて立てた小さな悲鳴を漏らさぬ様に、両手で必死に口を塞ぐ。
そんな澪の努力を嘲笑うかの様に、小さな音が更に響いた。
ぎり。
扉が軋んだ音と共に、僅かに扉が横に開く。
やがてその小さな隙間はゆっくりと大きくなっていった。
「あ……あああ……」
必死に後退り、部屋の奥へと逃げようとする。
だがその努力は樹月の使っていた本棚に腰が当たった時点で空しく終わる。
彼の部屋は扉が1つしかない。
即ち出入り口である扉……今、”アレ”が入ってこようとしている扉のみ。
キキキキ……。
古い材木同士が擦れ合う毎に悲鳴を上げる。
まるで澪の断末魔の叫びを代弁するかのように。
「た……たす……けて」
半ば程まで開いた扉を、恐怖と混乱に満たされながら見詰める澪。
限界まで見開かれた眼はゆっくりと開いていく扉の隙間を凝視し。
戦慄く口元は哀願ともつかない言葉が漏れ出て行く。
「おね……ぇちゃん……たすけて」
澪の口からそんな言葉が漏れた。
普段の澪なら絶対に口にしない言葉を。
「助けて……お姉ちゃん」
何時もなら、澪が足が悪くて大人しい姉を引っ張って歩いていたのに。
姉に嫌がらせをするクラスメートを追い払ったのも、お母さんが居ない夜に寂しがる繭を抱きしめて励ましたのも澪なのに。
「お姉ちゃん……たすけてよぉ」
極限の恐怖は、澪の理性も剥ぎ取っていった。
只、怖かった。怖くてどうしようもなかったからお姉ちゃんに助けを求めた。
あの温もりが尊かった。
何時も一緒で、姉妹で連れ添って生きてきた時に感じていた姉の体温。
ああ、何でこんなに寒いんだろう。
繭が居てくれれば、お姉ちゃんが居てくれればこんな思いしなくて済むのに。
澪は声も無く泣きながら、両手を肩へと伸ばして抱え込む。
そこには先程まで死の村を姉を助ける為に奔走していた少女の姿は無い。
姉に助けを求めてすすり泣く、無力な1人の少女しか居なかった。
ガコン。
無常な響きに、澪は思わず尻餅をついた。
扉が完全に開いている。薄暗い廊下がはっきりと彼女の眼にも見えていた。
ゆっくりと室内に、通路の冷たい空気が流れ込んで来る。
そして人影がゆっくりとー
「澪!」
自分の名前を呼ばれて驚いた澪が我に返った瞬間、彼女はきつく抱き締められた。
「良かった……無事で」
安堵の声と共に自分の後ろ髪がゆっくりと撫でられる。
自分に抱き着いている人物、それは確かに暖かかった。
あの、血糊で紅く染まった白装束ではなく。
自分とお揃いの洋服、それが澪の視界へと映っている。
「お姉ちゃん……?」
澪にとって懐かしく、尊い温もり。
「お姉ちゃん!」
姉の繭の温もりだった。
そうと気付いた瞬間、澪は夢中で姉の背中に手を回し自分の方へと寄せた。
「ああ……お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
「み、澪……苦しいよぉ」
姉の抗議にも答えず、澪は姉の暖かさを得ようと必死に抱き締めた。
ああ、なんて素晴らしいんだろう。この温もりは。
姉に触れているだけで、先程まで感じていた寒さも、孤独も、恐怖も、全てが霧散していく。
「お姉ちゃん……もう、何処にもいかないでよぉ!」
「ご、ごめん。私、気が付いたらこの部屋に入ろうとしていたの……そしたら澪が居たから」
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
姉の弁解の言葉にも耳を貸さず、抱き締めながら叫ぶ澪。
姉の戸惑いを他所に、彼女は繰り返し『お姉ちゃん』と呼びながら姉を離そうとはしない。
最初は何とか会話を成立させようとした繭だったが、やがて諦めたのか澪を抱き締め返し、頭をゆっくりと撫で始めた。
「もう、落ち着いた?」
「うん」
暫くの後。
何とか澪は平常心を取り戻していた。
落ち着いた後も、まだ繭は澪の髪を撫で続けている。
それだけ、彼女の取り乱しようは酷かったのだ。
「それで、本当に何も憶えていないの?」
「うん、誰かに呼ばれた様な気がしてから、その後はずっと憶えていないの」
妹の問いに困った顔で答える繭。
そんな姉の表情を伺いつつも、澪はほっとした表情で溜息を吐く。
「でも、本当にお姉ちゃんでよかった。もし……」
「もし?」
「あっ……!」
姉の合いの手にびくりと肩を揺らし、思わず顔を覗き込む。
姉の表情は相変わらずで、やや弱気な目線が澪を見返す。
「ど、どうしたの澪? 体の調子、まだ悪い?」
「う、ち、違うよ……何でもない。本当に、何でも無いから……」
慌てて誤魔化す澪。
もし、この事を蒸し返したら、また”アレ”が出てくるかもしれないからだ。
あの存在と出会うとなったら、もう生きた心地はしない。
「それよりもね、早く行こうよ……此処に何時までも居てもしょうがないし」
「うん、そうだね」
場をわざと誤魔化し、急いで立ち上がる澪。
転がっていた射影機を右手に、懐中電灯を左手に持ち直す。
早く、此処を出て村から脱出しよう。
そうすれば、以前の姉妹へと戻れる筈だ。
あんな風になってしまう事も、離れ離れになってしまう事も。
そう考え準備を急ぐ澪の耳に、唐突に繭が問いかけてきた。
「ねぇ。澪」
「何、お姉ちゃん?」
「私達……ずっと、ずっと一緒だよね?」
「え?」
不意の問いに澪は困惑の声をあげる。
が、直ぐに思い直してわざと陽気な声で返事を返す。
「うん、大丈夫だよ。前に約束したでしょ? 私達はずっと一緒だって」
「そう……そう、だよね」
お姉ちゃんは一体何を言っているのかなと澪は思う。
先程自分は理解したのだ。姉とは離れたくないと。
ならば返事に躊躇う必要など何処にある?
「もう私達、離れないよね?」
「うん、もう離れない。ずっと一緒だよ」
後ろから聞こえて来た姉の問いに澪は即答する。
安堵の息を聞き安心した澪は、そっと入り口の扉へと手をかけた。
「ズットイッショダッテ……」
澪の動きが。
「ヤクソクシタヨ……」
止まった。
「ソウダヨネ? オネエチャン」
一瞬で背筋が凍り付く。
この寒さには、覚えがある。
全身が震え、生存本能が警鐘を鳴らす。
逃げろと。
「ど、どうして……!」
慌てて振り向いた澪は、それ以上喋れなかった。
その前に伸びて来た青白い手が、彼女の身体に触れたからだ。
「あぅっ!」
持っていた射影機がごとりと畳の上へ転がった。
軽く掌を首元へ押さえつけられただけ。
ただ、それだけで体が硬直し動かない。
「酷いよお姉ちゃん……」
「あ……はぁぁ」
自分の目の前に居る存在。
それは繭だった。
目の前で澪の首元を押さえているのは繭の筈だった。
だが、瞳に宿る気配と輝きはそれではない。
何よりも恐れていた”アレ”そのものだった。
「私を置いていったくせに……そんな事言うの?」
澪の心をも刺し貫き凍らせる様な冷たい眼。
「そんな風に逃げようとして……また、私を置いていくの?」
口調は平坦だったが、声音は絶対零度の冷たさを秘めていた。
「だったら……もう私の事、置いていけない様にしてあげる」
「あっ……やぁ……」
必死にもがく澪の抵抗など気にしない様子で繭は顔を近づけていく。
澪の恐慌と比例するかの如く、繭は楽しげに口元を歪めた。
「お、おねぇ……あぁ!」
澪の声が途中で途切れる。
繭に力いっぱい抱き締められたからだ。
触れ合っている身体の部分から、ゆっくりと生気が吸い取られていく。
力を吸い取られ、弛緩した唇が開いていく。必死に塞ごうとしたが、口元に力が入らない。
「んふっ」
繭の目元が、禍々しく歪む。
同時に、ヌルリとした冷たい感触が澪の体内へと滑り込んで来た。
人ならざる感触、霊気が直接身体に流し込まれている。
(あ……ああぁ……つめ……た……ぃ)
体内を霊気が弄る度に、先程部屋の中で追い詰められていた時とは比較にならないほどの寒気が澪の身体に染み込んで来る。
同時に彼女は理解した。目の前に居る存在が何であるかを。
触れ合う事で双子の意識が共感したのだろうか。
だが、そんな事を考える余裕など澪には微塵も無かった。
(違う……ちが……ぅ……よ)
この繭に宿っている存在が紗重と呼ばれた少女である事を。
そして、自分が八重という彼女の姉と間違われている事を。
(私は……や……え……じゃな……)
彼女の必死の訴えは、繭……否、紗重の眼の輝きであっさりと霧散された。
より深く、紗重が霊気を送り込む毎に、自分の体から体温と精気が抜け落ちていくのがはっきりと解る。
だが、もう何も出来ない。腕を動かして振り解く事も、脚を動かして逃げる事も叶わない。
右手が弱々しく宙を掻いたものの、直ぐに下に向かって力なくさがり落ちた。
「あ……ぅ」
薄れていく視界の中で、最後に澪が見たもの。
それは、嬉しそうに此方を見ている紗重の瞳の中で、虚ろな眼をしている自身の顔だった……。
(たす……け……て、お姉ちゃん……)
「んふっ……」
ゆっくりと2人の身体が離れ、力なく澪の身体が崩れ落ちた。
存分に澪の精気を蹂躙した紗重は満足気に笑顔を浮かべる。
「これでお姉ちゃんも、もう勝手に何処かへいかないよね」
恐るべき怨霊に精気を抜かれた所為か、澪の顔色は青を通り越して白に近くなっていた。
だが、その身体には僅かな生気が残っている……まだ、死んではいない。
ぐったりとした澪の身体を軽々と持ち上げる紗重。
否、持ち上げているのではない。僅かに、両手から澪の身体が浮いている。
「さぁ……お姉ちゃん行こう」
意識が無い澪に問いかける紗重。
少し前まで狂気と妄執に満ちていたその表情は酷く穏やかだ。
ようやく手に入れた大切な者をいたわる様に、そっと澪を抱えながら彼女は歩き出す。
「儀式をして、1つになろう」
そうすれば、紗重はもう寂しくなんかない。
ずっと、ずっと愛しい八重と一緒に居られるのだ。
もう離れる事も無く、二度と別たれる事もない。
そう、永遠に姉妹は一つの存在へとなる。
「ふ……ふふふふふ………」
最愛の姉を腕の中に抱き、恍惚の笑みを浮かべながら廊下を歩いていく紗重。
やがて二人の姿が白装束へと変わり、紗重の腰に巻き付けられていた紅い縄が澪の腰にも巻きつく。
「ずっと……一緒だよ」
そして。
その姿は闇の中へと溶け、消え去っていった。
「お姉ちゃん……」
終
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